自己愛性人格障害の特徴とは?向き合うために必要なことを知ろう!

字面が原因でよく勘違いされますが、自己中心の人や高い自尊心と自信を持っている人と自己愛性人格障害は異なります。基底にある心理機構が病理的であるかどうかで自己愛性人格障害と呼ばれます。

実際この自己愛性人格障害の定義はカーンバークとコフートによって議論中であり、簡単に定義できるものではありません。そのためネットでは様々な誤解が蔓延しているようです。

まず自信家で自分の良いところをわかっている人が自己愛性人格障害というわけではありません。逆に口では「自分は大したことがありません」という謙虚な方でもそれが本心であるかどうかは別の話です。現代では謙虚は美徳であり、見せるための謙虚、つまり自己愛性人格障害の人が求める外的な肯定要因となる容姿や地位と変わりがない可能性もあるのです。

一見謙虚に見える自己愛性人格障害者に被害を受けているのに気が付かず「自分は無能だ」と思い込まされるケースさえあります。

自己愛性人格障害の方も、自己愛性人格障害かも知れない人に悩まされている方も具体的に何が障害なのか、どうするべきかをチェックしましょう。

自己愛性人格障害とは

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ネットのまとめでは簡単にいうと「モラルハラスメントをする人」だと思われていますが、それは根本的な原因や自己愛性人格障害を認定するものではありません。

自己愛性人格障害とは、批判をする人、自慢をする人ではありません。「条件付きの愛がなければ自分は愛されないという考えを持つために、自分が常に愛される条件を持つ人間、理想の状態にないと気が済まず、不安定で人間関係がうまくいかない人」また「今まで他人にしてもらっていた善意が当たり前だと思い、それを得らえないと激しく怒る人、他者への期待が大きすぎる人」です。

自己愛性人格障害の二つのタイプ

自己中心的で他者からちやほやされていないと気が済まないタイプと、周囲を過剰に気にするために注目の的になることを恐れ傷つきやすいが尊大な自己イメージがあるタイプと二つのタイプがあります。

よく前者は「リア王」後者は「人間失格の葉蔵」にたとえられます。

リア王はお世辞と真心を込めた言葉の違いが判らず、親孝行な娘を勘当します。自分の賞賛さえあればよいので批判を受け入れず、周囲はイエスマンしか置こうとしません。

よく自己愛性人格障害はこのチヤホヤされていないとダメなタイプのみのイメージだと誤解されがちですが、日本では後者の方が多いでしょう。前者のリア王タイプは日本社会では真っ先に批判の的になるので誰にも相手にされず自信が保てないからです。

一方、人間失格の葉蔵は日本人には多いタイプです。他人の反応に敏感ですぐに傷つきますが、自分には本当は才能があると思い込んでいます。あまりにもありふれ過ぎていてこれが自己愛性人格障害だと思われていないのではないかと疑いたくなります。

この二つのタイプは一見全く別の障害のように思われるかもしれません。

しかし、劣等感と尊大さ、内気なのに中身は尊大など共通点はあります。

諸説ある自己愛性人格障害 カーンバーグとコフート

自己愛性人格障害の定義とは、「ありのままの自己を愛せず、自己は優れていて特別で偉大な存在でなければならないと思い込むパーソナリティ障害」です。

自己愛性人格障害には諸説あり、カーンバークとコフートによって議論され、その主張は相反する部分があります。カーンバークは健全な大人の自己愛>健全な子供の自己愛>病的な自己愛があると定義し人は健全な大人の自己愛の段階を踏まねばならないという考え方をし、

コフートはフロイト流の伝統的な精神分析では自己愛、依存は脱却することが発達だと考えられている中で人間本来の自己愛や依存心はもっとも認め合うべきだと考えていました。

コフートにとって誇大自己は「原初的で『正常な』自己の固着」だという主張なのに対し、一方カーンバーグにとってはそれは病的な発達なのであり健全な自己愛ではないと真っ向から相対しています。

要するに自己愛とは定義すら議論中と言っていい部分で、本当はこんなに簡単にさくっとまとめられるような話ではなかったりします。気になる人はフロイトからラカンまで精神医学の権威と言われた人たちの文献全てを鵜呑みにせず反証可能性を意識し、アカデミックな視点でよく読んでみましょう。できれば原文だとニュアンスがわかってよいです。

ただここではカーンバークの大人の自己愛について「まず「大人」の定義とは」ということになりますが、これはやや西洋的な常識を含んでいると考えられます。コフートの誇大自己は原初的で『正常な』自己の固着であるというコフートの見解は日本では正常と呼ばれる大人でも稚拙な人が多いという現実をみれば汎用性があるので、ややコフート寄りの見解の記事になっています。

ただの性格の悪い人ではない自己愛性人格障害

自己愛的であることと自己愛性人格障害であることはちょっと違います。

日本人の場合はむしろ正常な自己愛すら悪いものだとして人の心をコントロールしようとする人が多く、愛という言葉自体、西洋では4種類ほどにわかれて愛欲なのか博愛なのか友愛なのか区別がありますが、日本では愛だけですべて表現してしまいますので愛と聞いて性欲を想像する人もいれば母と子の愛だと思う人もいてややこしく、愛の定義ですら誤解が生じ、愛自体が恥ずかしい事、軟弱なこと、悪い事かのように思っている人も少なくはありません。

ただの性格の悪い人や自分に都合の悪い人の一部分の性質をとって「自己愛性人格障害だ!」というのは間違いかも知れないのです。(これはややコフート的な解釈かも知れません。

自己愛や合理化、根拠のない自信自体は誰でも持っていて異常ではない

人格が正常な人も社会的に人に認められたいと思うことがほとんどで、批判されたら精神を守るために合理化し他人のせいにします。また他人より自分が大事という感覚も普通は存在します。

それに理由のない自信、周囲の誰の評価もないのに自分には才能があるという思い込みも誰にでもあります。

特にこの思い込みは、しばしば成功のためには必要になります。この根拠のない自信や才能があるという思い込みが白熱電球を産むこともあるでしょう。問題はこの自信が失われたときに現実を見られるか、人のせいにしたり、無視したりしないかということです。

これらの性格が悪い人の性質、常識的に見て「え?」と思ってしまうような性質は、確かに美しくはないですが自己愛性人格障害ではありません。

むしろ常識的に見て美しい謙遜ばかりする人が自己愛性人格障害である可能性すらあります。この点の違いは明確にしましょう。

ネットでよく見る自己愛性人格障害に対する批判の仕方について

自己愛性人格障害のワードで検索すると2チャンネルを中心に「私はこんなに自己愛性人格障害の人に迷惑をかけられました。」という記事にあふれていますが、正しい見解が少ないのが現状です。

あえてこの記事では書きませんでしたが、よくこのような性質だけを取り上げられます。

  • 自己を正当化するために他人を批判しがち
  • 思いやりがない。自己中心的。
  • 周りからの評価を過剰に気にしがち
  • 自分は特別な存在だと思い込む

これは正常といわれている人間でもよく見かける態度です。

この側面だけを取り上げ、本当に必要があって批判をしている人を「自己正当化だ」と指摘するために自己愛性人格障害だと指摘したり、自分が批判されて相手が思いやりがないと感じた人が相手を人格障害呼ばわりすることに使われてしまっています。また周りからの評価を気にしない人はいないこと、ある程度の自信は誰でも持っているということを度外視されています。

自己愛性人格障害の根本は、このような周囲から見て過剰な自己愛を見せる原因が、「ありのままの自己を愛せず、自己は優れていて特別で偉大な存在でなければならないと思い込む」ことが原因だということです。

なぜこのような誤解が生まれるのか

ネットの自己愛性人格障害のまとめでは、元ソースのカーンバーグやコフートの議論はさておいて、自己愛性人格障害はモラルハラスメントの筆頭者のように書かれています。

しかし、自分の実力不足で批判された人が「あいつは自己愛性人格障害だからありもしない能力をあるように見せて俺の上に立って批判した。俺の実力がなかったわけではなく、モラルハラスメントである。俺は正常だ。あいつは俺があいつに嫉妬してると言っていたが逆だ。あいつが嫉妬しているのだ」と言っているとすれば、なんだかこれはこれで自己愛性人格障害のようです。しかし、彼の言うとおりの本当にそういう相手だったのかも知れません。

ここでは「よく批判をする人は自己愛性人格障害だ」あるいは「自分が批判をされると怒る人はみんな自己愛性人格障害だ」という誤解を産んでいます。

世の中には正しい批判も正しい怒りもありますが、どちらかが不当だと言えば、あるいは勘違いで不当な批判、怒りだと思い込めば、どちらとも相手のことを「「おまえこそ人格障害だ」」と言い合うこともできてしまいます。批判すること、批判されて怒ることは愉快なことではありませんが、これ自体は病気ではありません。それが病気だと言い続けていたら今度はみんなアダルトチルドレンになります。

自分を批判した人間を貶めて自分の恥をなかったことにし、人格障害という仲間はずれをつくり素人が病名を他人にあてはめ一番低い地位に落とすことで自分を安心させる、というのも自己愛性人格障害のやり方のひとつです。また不完全な相手に安易に自己愛性人格障害だと批判する人は周囲に過度に期待し、裏切られると怒り出す人だ、とも言えなくもありません。どうもネットの自己愛性人格障害の記事はまるで自己愛性人格障害者が書いているかのような攻撃性があるように見受けられます。

それに多くのまとめでは「では自己愛性人格障害の人はどのように救われたらよいのか?」ということが何一つ書かれておらず、「こんな酷い人種がいます!こういう人が悪い人です!(ぼくは違います、僕はこういう人に悪いことをされました。怖いですね、君もそう思いますよね、僕が可哀想ですよね?ところで僕は悪くありません)」という紹介だけになっていることもしばしばあります。

日本人のキ○ガイの排斥は精神医学界でも問題になっていますが、その一例を垣間見た気になります。

これが2チャンネルやツイッターで特定の人を貶めるためにコピペされたり、RTされるんだろうな…あるいは自己愛性人格障害の方が他人がそうだというために使うんだろうな…と思うと気が重い話です。

世の中のほとんどの人はどこかで自己愛が強いからこの話題がホットな話題になるのかも知れません。お互いが自己愛のために「お前が自己愛性人格障害だ」と言い合って終わらないのです。

それは結局「自分のことだけじゃなくて俺のことも愛してくれよ」という感情です。ある程度誰にでもあるものです。皆無の境地に至って何にも期待しなければこのようなことは起こらずに済みますが、だいたいの人は無の境地の悟りが開けないのが普通です。

では自己愛性人格障害者はどうしたらいいのか?

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自分と他者とは違う人格を持つ存在で各々思考があるのだということ知ることです。

自己愛性人格障害の人がそれをできないのはひとえに劣等感による余裕のなさです。その払拭と他人に過度な期待を押し付けないことがポイントです。他人が自分を愛さないことが珍しいことではないことを知りましょう。

できればそこに真心の思いやりがあれば全然自己愛性人格障害に見えなくなりますが、残念ながら真心の思いやりは正常な人にもないことがあるのであったらラッキーぐらいに思っておきましょう。

自分は何かの才能や地位がなくても自分は自分と認めること

コフートによれば、他者という存在を知る前に「自分は何かの才能や地位がなくても自分は自分と認めること」も大事です。なんだそれは「自己愛」じゃないか?と思われるかもしれませんが、自己愛性人格障害は自己愛を持つ人のことではなく、正常な自己愛が得られなかった人という意味です。

実際に自己愛自体はある程度持つべきものです。ありのままの自分を愛せない人というのはありのままの他人を愛すのはなかなか難しいものです。「自分のような条件を守った」人しか愛せなくなります。

条件付きの愛を得なければ自分は愛されないという思い込みがあると、

「自分が才能を持たなければ見捨てられる→同時に周囲もそれを認めなければならない」

と考え、強迫的な手段を使って他人に自分の能力を認めさせようとするために、他人にとって困った人になってしまいます。

才能を信じることと努力に対する応報

ここで自分一人が自分の才能を信じて人に迷惑をかけず現実的な努力する分には中身は同じでも自己愛性人格障害とは呼ばれません。まだ社会的には迷惑ではないから苦情が来ないためです。(実際は因子は持っています。努力する人は殆どは自分と同じ努力を他人がしていないと気に入らなく思う人が多いです。なぜなら彼は努力しているから認められているのだという条件付きの愛故に自分を認めているので、結局他者にもそれを強要することが多くなります。

ただし日本ではこれは経済効果があり美徳とされています。ブラック企業で残業している人がいると定時に帰り辛いことはこのケースですが、むしろ帰らないことが「常識」とみなされます。このように精神病は社会のニーズで作られることが現実です。

人は無償で働けるほど強くないのです。ほとんどの人が見返りを求めます。それが「俺が苦しんでいるからお前も苦しめ」という「生物として正常な」悪意ともいえます。)

しかし問題は自己愛性人格障害の人はここで他者の存在を欲しがることです。故に「他者を巻き込んで自分の現実の実力以上に褒められようとする」かあるいは褒められないとわかれば「現実の実力を自分で認知しないようにするため、他者の評価を受けないようにひきこもる」かどちらかになります。

才能や地位がなければ愛されないという状況がこれらの強迫観念を産んでいます。

ただし社会あるいは正常な人は相手に才能や地位がなくても愛することがあったかというと疑問です。それを考えると社会側が自己愛性人格障害をもつことの方を推奨しているように見えなくもありません。

しかし、これらを認めてくれないから社会のほうが悪いというのもまた自己愛性人格障害です。第一社会が完璧だったことなど今の今まで一度もありませんでした。社会が僕のことを愛してくれない、というのは珍しい話ではありません。しかし最近の社会は人類数千年の歴史上の賢い人がつくったけっこう優秀な社会システムで動いています。まるで完璧かのように思い込んで期待するのも無理ありません。しかし本来はなかったものです。

他人の弱さを許せるようになること、期待が裏切られても怒らないこと

社会、つまりその構成員である人間の多くのほとんどは弱くて正しくなく仮に少しの愛があってもその愛は有限です。自己愛性人格障害の問題のもう一つは「他者の弱さを知らないし許せない」事でもあります。いつまでも子供側に立って、誰かに認められること、誰かにしてもらうことを待っていると、人に認められないと気が済まなくなり、誰かが自分のために何かしてくれることを当たり前だと思います。

「他者に無条件に自分が優遇されることを期待して、裏切られると怒ること」もまた自己愛性人格障害の一つです。

例えばお店などに良く居る「お客様は神様だと思え」と言って店長を呼ぶタイプのお客さんが理不尽な要求をするとき、その人は、自分だけでなく他人も事情があるとか、法律上お客にそこまでサービスをする理由がないということを理解しません。お店の人も担当者も一生懸命働いているということもわからず、たとえわかっていても自分の都合や感情を優先します。よくこれを自己中心的で他人の視点に立つことができないと言いますが、実際は、わかっていても他者の不完全さを許せないのが原因です。

社会的な契約や保証、国や他者の善意の契約も増えていろいろな便利さが当たり前のものになりました。しかしそれらは本来一切無かったものです。ある意味現代の人間は全て「様々なことを他人に期待している甘やかされた子供」のようなものなのかもしれません。これも相手に対する期待は誰でも持っているのですが、それを常識から逸脱して要求すると晴れて人格障害と呼ばれます。

しかし他者に期待することをやめれば他人の評価に一喜一憂することもなくなります。

あまりないとそれはそれでまた浮世離れしてしまうので何かの人格障害の名前がつくかもしれませんが、少なくとも自己愛性人格障害とは呼ばれなくなるはすです。

まとめ

自己愛性人格障害は、自己愛性人格障害の人が自分を正当化するためによく他人に浴びせかける病名です。そのためネットでは大変ホットな話題で、猫も杓子も「私は自己愛性人格障害者の被害にあった」と報告する始末で、自己愛性人格障害の偏った見解を持つ記事が出回っています。

カートバーグとコフートが議論する自己愛性人格障害の定義とは、ありのままの自己を愛せず、自己は優れていて特別で偉大な存在でなければならないと思い込むパーソナリティ障害ということです。

自己愛的なふるまいと自己愛性人格障害は異なります。

自己愛的な人格を持つ人は、相手が自分ではなく自己を愛していることを面白く思いません。それ故自己愛的な人は特に自己愛的な人を憎みます。

貴方がもし貴方が腹立たしく思っている他人に自己愛性人格障害であることを突き付けようとしてネットサーフィンをしているのであれば、少し自分自身のことも振り返りましょう。

またもし自分が自己愛性人格障害ではないかと思ったときは「何かの地位や美貌や経済力や賞賛などの条件がなくても自分は存在してもいいと思うこと」「他人が自分を愛さなくても気にかけないこと」「他人の不完全さを許すこと」が必要です。精神科に相談してカウンセリングや投薬を受けましょう。

  
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