映画やドラマで出てくる「記憶喪失」のことを「解離性健忘」といいます。物語の世界での記憶喪失は、主人公が交通事故で頭に衝撃を受けて、自分の名前や自宅住所、家族のことすら忘れてしまう――という感じです。医療現場でも「ある衝撃」が「解離性健忘」を引き起こすと考えられています。
ただ「解離性健忘」を含む「解離性障害」という病気は、一般の人のイメージよりも深刻です。文字通り「ある人が自分と解離してしまう」からです。
「忘れる」の種類
解離性健忘は「忘れる」という症状が出ます。しかし「健忘症」も「認知症」も「忘れる」が発症します。この3つは種類が異なる「忘れる」なのです。
健忘症
健忘症はいわゆる「物忘れ」です。若いころは「忘れなかった」のに、加齢とともに「忘れる」ことが増えるので、認知症と混同されやすいのですが、両者は別の症状です。健忘症は脳の「老化」、認知症は脳の「障害」と考えてください。
「年を取ると速く走れなくなる」のは、筋肉と関節と骨の老化ですが、「足に重大なけがを負って走れなくなる」のは、筋肉と関節と骨の障害です。これと同じです。
健忘症の特徴は「直前のことを忘れる」ことです。隣の部屋にあるモノを取りに行って、目的地に到着した途端「何しにここに来たんだっけ?」となるのが健忘症です。「忘れていることは分かっている」のも健忘症の特徴です。
認知症
認知症の症状はたくさんあって、症状のひとつには、健忘症のような「直前のことを忘れる」こともあります。しかし、認知症を特徴付けるのは「忘れたことを忘れる」症状です。
また妄想や錯誤といった「事実でないこと」を「事実」と捉えてしまうこともあります。本当は盗まれていないのに「嫁に財布を盗まれた」と確信してしまったり、本当は食べたのに「朝ごはんを食べていない」と信じてしまったりします。
認知症は、脳が縮んだり、本来は脳に存在してはならない物質が脳に付着していることで発症します。まさに「脳が障害されている」状態です。
解離性健忘の症状
解離性健忘の症状を知っておきましょう。
「解離していない」とは
「解離」を説明することは難しいです。そこでまず「解離していない」について説明します。
解離性健忘でない人は「記憶」と「意識」と「知覚」と「アイデンティティ」が1つにまとまっています。「アイデンティティ」とは「自分らしいこと」「その人がその人であること」という意味です。
これまでの生活の「記憶」は「知識」として蓄えられます。人は「知識」を使って生活をしたり仕事をしたりしています。また外界の刺激や、周囲の人からの干渉を「知覚」することでも、「記憶」や「知識」は作られていきます。
そうしてできあがるのが「その人らしさ」つまり「アイデンティティ」です。記憶と意識と知覚とアイデンティティは、「連続」して「連結」して、そして「ひとかたまり」になっているのです。
解離の意味
ところが解離性健忘の人は、記憶と知識と知覚とアイデンティティがばらばらになっているのです。「ある人のアイデンティティ」を作ってきた「その人の記憶」や「その人の知識」が、その人のモノではなくなってしまうのです。
「解離」とは「自分」と「自分のモノ」が離れてしまうことです。「解離性健忘」と診断された2つの事例をみてみましょう。
事故後の1週間
患者は30代の男性です。妻と子供2人と家族ドライブに出かけたところ、居眠り運転の大型トラックに追突され、男性以外の家族全員が即死してしまいました。男性がその後、精神科医の診察を受けたところ、事故が発生する数時間前から、事故後1週間の記憶がまったくないことが分かりました。
ただ男性は、ドライブ以前の家族の記憶は鮮明に覚えています。また事故後2週間目以降は、新しく獲得した情報を記憶として蓄えることができています。つまり、記憶を司る脳の一部が損傷して記憶が消えているわけではないのです。
捜索願を出される
別の事例です。患者の20代後半の女性は、職場の男性と付き合っていました。男性が女性にプロポーズしようとフランスレストランを予約し、女性もレストランに行くことを了承しました。しかし女性は現れませんでした。
男性はふられたと思いあきらめますが、ただきちんと話はしたいと思いました。しかし女性は職場に現れません。電話をしてもつながりません。自宅に出向いても留守で、男性は女性の母親に連絡し、警察に捜索願を出しました。
女性はすぐに警察に保護されました。精神科の病院に入院し、すべてを忘れていることが分かりました。自分の名前も、恋人も、母親も、職業もすべてです。ただ、解離性健忘の診断が下り、その治療を受けたところ、部分的に記憶が回復してきました。そしてある事実が分かりました。
女性は幼いころ父親から虐待を受けていて、心に大きな傷を負っていました。付き合っていた男性は、その父親と似ていたのです。男性と付き合ううちに父親への強い嫌悪感が呼び起され、それが解離性健忘を生じさせたのです。
数時間から数十年間まで
解離性健忘の人が忘れている期間は、数時間のこともあります。1年間の記憶がない、という人もいます。また、これまでの全人生に起きたことすべてを思い出せないこともあります。期間はさまざまです。
ただ「記憶のない期間」は明確に区切られています。「最後の記憶」は覚えていて、「記憶が回復した」ときのことも覚えているのです。記憶の回復後は、通常通り記憶することができます。
記憶喪失以外の症状では、抑うつ症状があります。解離性健忘の患者は、「記憶を失った」ということは判別できますので、そのことがショックで精神に異常をきたしてしまうのです。ただ、記憶を失ったことに無頓着な人もいます。そのような人はそもそも医者にかからないので、解離性健忘の診断を受けないまま、日常生活を送っているのです。
解離性健忘の原因
紹介した2つの解離性健忘の症例には、共通点があります。「心の大きな傷」です。
ただ、精神的に大きなショックを受けると、解離性健忘が発症することは分かっているのですが、心の傷がなぜ記憶を壊すのか、そのメカニズムは分かっていません。
「忘れたい」
強く「忘れたい」と思うことが、解離性健忘を引き起こすと考えている専門家もいます。まず「妻と子供2人が亡くなった」ということを、「事実ではないと思いたい」と考えます。次に「事実のはずがない」と思うようになります。
そして脳が「もし事実と認めたら心が壊れる」と判断すると、脳は「家族が亡くなった記憶」を消してしまうのです。脳が自己防衛として記憶を消し去る、という説です。
「見た」だけでも
性的虐待や自然災害、さらに戦争といった壮絶な体験も、解離性健忘の「引き金」になります。また殺人現場を目撃して、それが心の傷となりこの病気を引き起こした事例も報告されています。
解離性健忘の治療
では次に、治療方法を紹介します。
検査
解離性健忘が疑われると、血液検査や脳のMRI検査、脳波検査などを行います。ただこれは「解離性健忘の特徴を見つける」検査ではありません。「解離性健忘以外の病気がないか探す」検査です。例えば違法薬物の乱用によっても、解離性健忘と似た症状を引き起こすからです。
- ①記憶がないこと
- ②解離性健忘以外の病気が疑われないこと
- ③心を壊すほどの大きな「引き金」が存在すること
以上3項目が確認されたとき、解離性健忘と診断されます。
精神科医のカウンセリング
解離性健忘の治療では、医師の面接、すなわちカウンセリングがとても重要です。というのも、患者は記憶を失っているわけですから、治療をすすめる中で間違った記憶を作り出すことがあってはなりません。専門の医師による治療が必要なのです。
記憶想起法
催眠と薬物を使って医師が面接することを、記憶想起法といいます。使用する薬物は「バルビツール酸」と「ベンゾジアゼピン」という鎮静薬です。これを点滴投与してから、患者と医師が1対1で話します。
記憶想起法は、医師が質問をして、患者が答えるという形式で進みます。患者は「無意識に」または「本能的に」、苦痛に満ちた経験や葛藤を思い出さないようにしています。医師はこの「心の壁」を突破することを目指します。
ただすでに患者本人が「真実ではない記憶」を作り上げていて、それを「本当の記憶」として信じている場合があるので、医師は患者の家族などに確認をする必要があります。医師にも患者にも根気が必要な治療です。
治療の効果
記憶想起法などの治療によって、解離性健忘のほとんどは治ります。つまり失った記憶は回復します。ただ、「心の壁」を突き破れず、記憶が回復しないこともあります。
薬物療法
抑うつ症状が見られるときは、薬物療法が選択されます。
まとめ
解離性健忘は、珍しい病気です。それは特別な体験をしないと発症しないからです。また、心が壊れてしまっていることで発症します。周囲の人は、異常に気付いたらすぐに医者にかかるよう手配してあげることが必要です。
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