以前、よく言われた「自分探しの旅」という言葉があります。自分が思っている自分は、本当に事実なのか?いつもと違う環境に身をおけば、もしかしたら違う反応をする自分に出会えるのではないか?という未知の期待が込められた言葉でした。
自分らしさを求めてやまない、だって一度きりの人生だから・・・この考え方は個人主義そのものと眉をひそめる大人もいましたが、それは職業選択の枠が広がった時代背景もあります。しかし、それは決して楽な作業ではなく、精神のバランスに支障をきたしかねない危ない旅でもあるのです。
自我同一性とは
自我同一性と言われてピンとこなくても、アイデンティティーと言われると聞いたことがあるのではないでしょうか?この言葉はアメリカのエリクソン精神医学博士が提唱したものです。
精神分析的人格発達理論の概念という意味で、平たく言うと「自分って○○○」という認識です。自我同一性を確立するために、様々なドラマを人生で経験します。その意味で、人生は自我を確立できてこそ幸せが確定すると言っていいでしょう。
自我と自己は全く違う
自我同一性についてご説明する前に、自我と自己との違いについて考えてみましょう。自我、というとさほど日常生活で使用しません。幼児期の、自我の芽生え、程度でしょうか。むしろ宗教や思想、哲学では垣間見るキーワードかもしれません。
それに比べ、自己という言葉は公私ともに多く使います。自己ベスト新記録達成、自己責任でお願いします、など目にする機会は多いと思います。
自我、とは先ほどお伝えしたようにアイデンティティーと呼ばれるもので、主に14歳から40歳くらいまでの青年期に確立を求めて自分に問い続けるものです。平たくいうと「自分って誰?何?」みたいな模索を連続し、誰がどう評価しようと私はこういう人間なんだという理解と確信です。自分目線の自分取り扱い説明書とお考えください。
それに比べて、自己とは社会的なフィールドでの客観的評価です。こんなふうに見られている、あるいは見られたいから、その評価が得られるように努める姿です。パーソナリティーとよばれ、他人から見た自分らしさです。よくキャラの確立、などと言われます。
自我同一性の確立
この二つは自分の中で矛盾なく溶け合う必要があります。自分は○○国民で○○社員で、という帰属場所も大切です。同朋意識、これも自分を強く意識できるものでしょう。
自分らしくあること、それが社会で受け入れられること、これが満たされると安定感に包まれます。ポジション、役割というのは個人の尊厳を守るものです。それが不明だったり未定だったり、否定されると不安定になって自分の軸が定まらず、大きな自己嫌悪につながりかねません。
ここで重要なのは、環境によって造られる部分もありながら、感情も大きく関与するということです。
例えば、血のつながった家族で食卓を囲みながら、いつも自分より可愛がられている(と、認識している)兄弟がいたとして、自分は本当はよその子ではないかと疑う時、そこに安定したポジションも役割も感じられません。自分なんかいないほうがいいと皆が思っていると感じたとすれば、不安定な情緒になって前向きな進路設定はできません。
仮に、全員が親のない子供たちの集団生活があったとして、それぞれが兄や姉の役割、弟や妹の役割で必要とされ、感謝される時、ここにいなければと使命感さえ持つかもしれません。
自分は○○で、しかも○○のために頑張っている。この自負は恵まれた環境だから必ず得られるものではないのです。
例えばアメリカは他民族国家です。人種も多く、言語も英語にはしていますが実際は多言語で生活しています。それでも愛国心は存在し、アメリカ国民である点では団結できます。それは、国歌であったり、国旗であったりシンボルとなるものを大切にして「同朋意識」を高めることを政策として取り入れているからです。
自我同一性拡散症候群
私って○○○な人間だという認識、つまり自我同一性が拡散するとはどういう状況でしょう。年配になると自我も自己も固定化して、拡散するという意味が分からないと思います。自己同一性の形成途上にある青年たちにすれば、これこそまさに人生の試練なのです。
もちろん、人生の試練とは成長に必要不可欠、決して悪いものではありませんが、時に打ちのめされて心の病に罹る方もいます。
拡散する、とは?
自我を確立し損ねて、アイデンティティーの形成不全を指します。
あるべき自分を目指して、あるいは誰もがやらなくてはならない状況において失敗した時、人は傷つき、失敗から学んで成長します。
年齢的によくあるケースが高校受験でしょうか。高校卒業時は大学、留学、浪人、就職と幅広い選択が認められますが、最近では高校までは進学する傾向にあります。
自分の家庭の経済力、自分の学力、成績、適性、運動能力、様々な要因を他者と比べて評価されるという社会的な扱いを受けます。そこで、自分のしたいととできることに向き合うことになりますが、ここで不本意な評価を受けて希望がかなわない経験は誰でも持つと思います。
このこと自体を拡散とはよびません。問題は、そのことを受け入れることに納得できず、自分の位置づけを見失って、自暴自棄になったり過度に落ち込んだりして生活そのものに影響するとことを拡散といいます。
自我同一性症候群になると、自滅的な考えを持ち、適切な選択、判断ができません。もちろんコミュニケーション能力にも大きく影響し、他者に自分の考えを伝えることが困難になります。
具体的には、高校を中退したり、不登校になったりして引きこもり、ニートとして数年から数十年引きこもって社会問題になったりもします。青年期モノトリアムといって、社会的猶予期間として自宅待機のような生活を送るのも同じ発想です。
拡散を終了させるために
自分が何をやりたいか、今、何をすべきか。これが明確にできないのが拡散状態です。
自分が全力で取り組んで失敗すると、みんなから見離される、失望したくないという恐怖から「願望を持たない、明確にしない」という自己保全で、これ自体は病気でも何でもありません。誰でも経験のある状況です。
この経験がない人の方が珍しいのではないでしょうか。しかも克服して強くなるためには、挫折も必要です。
でも、ここで心が風邪をひいたようにクヨクヨして、こじらせて精神の均衡を崩すのであれば対策が必要です。
摂食障害やリストカットのような自傷行為が見られたら、医療関係の受診も視野にいれる必要もありますが、早い段階でカウンセリングであったり、周囲のサポートなどを開始することが重要です。
様子をみる、そのうち何とかなるだろう、は禁物です。時間が経てば経つほど友人たちとの交流もしにくくなって疎外感、孤独感は強まります。
これだけ医学が発達した現代であっても風邪薬ができないように、風邪は心にとっても万病の元です。こじらせれば肺炎になり、死に至ることもあるのが風邪というもの、あなたは必要とされていると感じさせるアプローチを試みましょう。
自我同一性障害
自我同一性障害は、自我の確立に失敗して拡散した後、病的な傾向に持ち越して日常生活に支障をきたすものです。
自分が何をしたいのか分からないレベルではなく、もはや自分が誰なのかも明確にできません。人格の核になる部分がないので矯正も更生もできません。コミュニケーションがうまくいかないところから犯罪にまで発展しかねないのが大きな問題です。
心理的傾向
自分が何者か分からない、そんな恐ろしいことがあるでしょうか。あなたがAだと私のことを呼ぶなら、私はきっとAなのでしょう、という自己認識です。
強いアピールについていきます。きっぱり言い切られると安心するからです。陶酔する、という感じで無批判に要求をのみます。
エリクソン博士が自我同一性という概念を重要視するのは、全体主義が頭にあるからだと聞いたことがあります。
明確な自我がないと、全体主義のリーダーやカリスマ性の強いカルト集団に心酔してしまう可能性があるのです。
どんな反社会的なことでも、自分で疑問を持つことができません。これほど危険なことがあるでしょうか。カウンセリングで気づきをもたらすにも、核の部分がないので反応できません。
犯罪者で一番、再犯率が高いのもこのタイプです。明らかな悪意を持って、計画して実行する犯人は、反省して更生する可能性があるといいます。しかし、あいつが「やれ」といったから「やった」という人間は変えようがないのです。じゃ、あいつが死ねと言えば死ぬのか?と質問しても、そうかもという反応です。
解離現象が起きる
ドラマなどでは時々、出てきます。多重人格で、何人かが自分の心の部屋にいて、誰かが支配している間は記憶がない、というケースです。
この場合、自分が全くない障害ではありません。むしろ、複数いる、という障害です。虐待など、受け入れがたい心的外傷を負うと「これは私じゃない」と別の人格を仕立てて、その人の人生にしてしまうのです。
犯行に及んだ人格が隠れてしまうと、本人には記憶がないので嘘発見器でも反応しません。
ふと、自分が知らないところにいつの間にか行って、知らない買い物をしたりしていて記憶が全くないなんてオカルトのような恐怖です。
治療方法
早い段階での受診が必要です。脳波やホルモン数値など身体面での異常があるのかないのかを調べ、身体的なトラブルがないようなら、専門家による心理テストで診断がされます。
薬物の投与、時に入院も大切な治療です。専門家が見守って生活できる環境を与えることは、患者にとってストレスかもしれませんが、大きな変化ではあります。
何の変化もなくじわじわ時間が経過することの方が、問題を大きくすると考えて差し支えありません。専門家と家族の連携、団結、そして忍耐が必要です。
まとめ
そもそも自我同一性障害まで引き起こす原因として、遺伝性であるとか、生い立ちであるとか議論され続けてきました。医療なのか、教育なのか、どのアプローチが正しいのかも問われ続けています。最終的には治安の問題に集約されていくと思います。個人的な犯罪から社会的な犯罪に至るまで、個人の自我を健全に確立することで予防できることが多いからです。自分は、こうだ!これでいいのだ!と言い切れる大人に成れるまで、社会全体で見守る必要があります。