「内弁慶」という言葉を聞いたことの無い人は少ないでしょう。それだけ「内弁慶」という言葉は、日本語を操る私たちにとって、耳なじみのある言葉であり表現と言えるでしょう。
「内弁慶」とは、例えば家庭内や会社内といった自分のホームグラウンドでは威勢が良く強気なのに、いったん外の世界に出ると途端に臆病で意気地がなくなるような人のことです。このような人は何処にでもいますし、あるいは自分は内弁慶だと自覚している人もいるかもしれませんね。
そこで今回は、「内弁慶」の意味を再確認した上で、内弁慶となる心理や理由などについて、ご紹介したいと思いますので参考にしていただければ幸いです。
この記事の目次
「内弁慶」の意味
そもそも「内弁慶」という言葉は、どのような意味を有するのでしょうか?「内弁慶」という言葉が頻繁に用いられるために、改めて意味を調べる機会は多くないでしょう。そこで、まずは「内弁慶」という言葉の意味について、再確認したいと思います。
「内弁慶」の辞書的意味
「内弁慶」という言葉について、いくつかの国語辞典を調べてみると、概ね次のような意味を有することが分かります。
- 家の中では威張り散らすが、外では意気地がないこと。そのような様子。そのような人。
- 家では威張っているけども、外に出ると途端に意気地がなくなること。そのような人。
ちなみに、ほぼ同じ意味の慣用句として「内弁慶の外地蔵」があり、家の中では弁慶のように威張っているものの、外面は地蔵のように大人しい様子を表します。
「内弁慶」の由来
「内弁慶」の弁慶とは、平安時代末期に実在した僧兵の武蔵坊弁慶のことです。武蔵坊弁慶は、史実においては鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に源義経(牛若丸)の郎党・従者の一人と記述があるのみです。
しかしながら、室町時代の初期前後に創作された軍記物語「義経記」において、武蔵坊弁慶は怪力で武術に長けた義経の忠臣として描かれます。その後、そのような怪力の豪傑としての武蔵坊弁慶像が繰り返し猿楽・能・歌舞伎などといった芸能で演じられることで、武蔵坊弁慶の怪力で古今無双な豪傑としてのイメージが日本の社会に定着していきます。その結果として、日本社会において「弁慶」という言葉は、強い人・強者・豪傑などの代名詞となったわけです。
このように強い人・強者の代名詞として定着したことで、さらに「弁慶」という言葉から「弁慶の立往生」や「弁慶の泣き所」など様々な派生語が誕生します。その派生語の一つが「内弁慶」なのです。
「内弁慶」の意味
このように「内弁慶」という言葉の辞書的意味は、家の中では威張り散らすけれども外に出ると途端に意気地がなくなること、そのような人を意味します。
ただし、現実には辞書的意味より広い意味で用いられています。つまり、「内弁慶」という言葉は、内向きでは威勢が良いのに外向きでは意気地がなくなること、を意味します。
例えば、会社内といった自分のホームグラウンドでは部下に対して威勢が良く強気なのに、いったん社外に出ると途端に威勢が無くなり、猫を被ったようになってしまう人などにも「内弁慶」という表現が用いられるのです。
「内弁慶」の反対語
「内弁慶」の反対語として「外弁慶」という言葉があり、こちらは外では威勢が良いのに、家の中では大人しくなる様子や、そのような人のことを意味します。
例えば、親の子供に対する教育や躾(しつけ)があまりに厳しいことが原因で、子供が家族の前では非常に従順で大人しい態度なのに、親の目の届かない場所では羽目を外して傍若無人な行動をするようなケースで、「外弁慶」と表現します。
内弁慶となる心理や理由
このように「内弁慶」とは、自分のホームグラウンドでは威勢が良く強気なのに、いったん外の世界に出ると途端に臆病で意気地がなくなるような人のことです。
それでは、どうして内弁慶になってしまうのでしょうか?そこで、内弁慶となってしまう心理や理由について、ご紹介したいと思います。
気持ちが通じ合う家族への甘え
内弁慶となる心理状況の最も大きな要因は、気持ちや感情が通じ合う家族への甘えといった心理の存在だと言えるでしょう。
人間は社会的動物であり、共同体や社会を構成して生きています。とはいえ、会社や学校といった社会組織が大きくなればなるほど、自分とは性格や意見などが合わない人たちと遭遇することが多くなります。そのような自分と合わない人たちとの会話には相手に対する気遣いが必要ですし、逆に相手の自分勝手な振る舞いで嫌な感情を抱くこともあるでしょう。それゆえ、家の外の世界に出ると、自分でも知らないうちに他人との人間関係によって精神的ストレスを感じているのです。
一方で、家族は人間が形成する共同体や社会としては最小の社会組織ではあるものの、血縁と常に生活を共にすることから概ね感情を共有する精神的なつながりが存在します。そして、その家族間の精神的つながりの存在ゆえに、多少の感情的な振る舞いは大目に見てもらえます。そのため、家の外で溜まってしまったストレスを家庭内で威張ることで解消するのですが、このような内弁慶な言動の背景には家族愛と家族愛に対する甘えが存在すると言えるのです。
周囲の人から嫌われたくないという心理
内弁慶となる心理や理由の一つとして、周りの人から嫌われたくないという心理の存在が挙げられるでしょう。
内弁慶であることの要素は大きく二つあり、一つは身内に対して威勢が良いこと、もう一つは外に向かって大人しいことです。この外に向かって大人しく意気地のない振る舞いになる理由は、ほとんどの人間が多かれ少なかれ有している深層心理によるものと言えるでしょう。
その深層心理とは、人に嫌われたくないという心理です。前述のように人間は社会的動物であって、人と人との関わりの中で生きています。現代では食料やインフラも整備されているので一人で生きようと思えば生きていけるかもしれませんが、狩猟時代にあっては孤独は死を意味します。それゆえ、人間の心理的特徴として、周囲の人から嫌われたくないという潜在的な心理、言い換えれば社会や共同体に帰属していたいという欲求が存在するのです。
ですから、内弁慶となる二つの要素のうち外面が良くなる理由としては、このように周囲の人に嫌われたくないがために、大人しく無難な言動をしているからと言えるのです。
周囲の人からの評価を気にする心理
内弁慶となる心理や理由の一つには、周りの人からの評価を気にする心理、周りの人から認めてもらいたいという心理の存在も挙げられるかもしれません。
前述のように人間には、周囲の人から嫌われたくない心理、社会や共同体に帰属していたい欲求が存在します。このような心理や欲求がある程度満たされると、中には周囲の人により良く思われたい心理が芽生える人もいるでしょう。言い換えれば、周囲の人から認めてもらいたいという承認欲求が生じる人もいるのです。これは、より良い人生を手に入れるために、自分を格好良くみせようとするもので、根底には自分自身への自己愛があると言えるかもしれません。
とはいえ、周囲の人に対する自分の印象を良くするには、仕事を頑張ったり、着飾ったり、人付き合いを良くしたりすることが必要で、そこには気疲れやストレスがつきものです。中には見栄をはって余計な気疲れをする人もいるでしょうし、逆に人見知りな人にとっては自分の内向的性格と自分の承認欲求の衝突自体がストレスになるかもしれません。
いずれにしろ、周囲の人から嫌われたくない心理、社会や共同体に帰属していたい欲求が生じることで余計なストレスや気疲れが生じるために、そのストレスを解消する場所が必要になります。その結果、外の世界で解消することは難しいので、身内に向かって威張り散らす内弁慶となる傾向があるわけです。
精神障害の可能性も
内弁慶となる心理や理由としては、社交不安障害などの精神障害の可能性もあるかもしれません。
社会不安障害とは、対人関係で過剰な緊張・不安・恐怖などを感じることにより、動悸・震え・腹痛・発汗などの身体症状も現れて生活に支障が生じる、という精神障害の一つです。
前述のように内弁慶であることの要素は大きく二つあり、一つは身内に対して威勢が良いこと、もう一つは外に向かって大人しいことです。この外に向かって大人しくなる状況が、単なる内気な性格的傾向を超えて、他人との対人関係において過剰な緊張や不安が生じて動悸や震えなどが現れるようならば、社交不安障害の可能性があるかもしれません。
一方で、社交不安障害においては、家族や家庭内で症状が現れることは滅多にないので、対人関係における緊張や不安などからくるストレスの吐け口が身内に向かう可能性もあります。それゆえ、一見すると家の中では威張り散らして外では意気地がない、という内弁慶のような状態となるのです。
まとめ
いかがでしたか?「内弁慶」の意味を再確認した上で、内弁慶となる心理や理由などについて解説してみましたが、ご理解いただけたでしょうか?
「内弁慶」とは、本記事で紹介したように、家庭内や会社内といった自分のホームグラウンドでは威勢が良く強気なのに、いったん外の世界に出ると途端に臆病で意気地がなくなるような人のことです。このような内弁慶の人は、実は少なくありません。
もし自分は内弁慶だと自覚している人いれば、本記事で紹介した内弁慶となる心理や理由を踏まえた上で、世間や外の世界で様々な成功体験や失敗体験を積みながら、自分に自信を持てるようにすることが対処法であり克服方法と言えるでしょう。本記事が「内弁慶」の理解の一助となれば幸いです。